023 「凍てる岩肌に魅せられて」小西政継

小西政継(こにし まさつぐ)
 昭和13年(1938年)、東京に生まれる。32年、山岳同志会に入会。以後、無雪期、積雪期をとわず、谷川、穂高、剣、鹿島槍、不帰等の多くの岩壁を登攀する。42年、冬期マッターホルン北壁を登頂(第3登)し、44年秋、45年春にはエヴェレスト南西壁を試登する。46年、冬期グランドジョラス北壁(第3登)、さらに51年には、ヒマラヤ、ジャヌー北壁の登頂に成功する。著書に『グランドジョラス北壁』『ロッククライミングの本』『ジャヌー北壁』『凍てる岩肌に魅せられて』がある。平成8年10月没。

岩と氷にまみれて (第2章)
不帰岳三峰B尾根を第二登


 遭難は新聞でも騒がれ、私の帰京も四、五日延びたので、もしかしたら自分の息子が遭難したのではないかと、母はハラハラしながら家で待っていた。
「もう山登りはやめておくれ、お願いだから」
 母の願いに、どう返答していいか困ってしまったが、
「あと五年、二十五歳になったら必ず山はやめるから、それまでやらせてくれよ」
 と、頼み込んだ。
 私は真剣だった。ここで山をやめたのでは第一、中途半端だった。山の魅力がようやくわかりかけてきた私は、どうしても続けたかった。
 後年、母はこのときのことを、
「よく考えてみたら、兄は大学まで出してやったけど、政坊には私が病気してしまって中学校しかいかせてやれなかった。そのせめてもの償いに政坊には、山は危険ではあるけれども、好きなことをやらせてやろうと思ったんだよ」
 と、ぽっつり話してきかせてくれた。
 二十五歳の誕生日をむかえたとき、
「約束通り二十五歳になったんだから、山はやめておくれ」
 と母はいったが、
「これからが本格的になるんじゃないか」
 と、一言でけっとばしてしまった。これ以後、母の口から山への苦言は一切なくなってしまった。
 一人前のリーダーとなった二十六歳のとき、山に登る息子を持つ、母としての心構えを少しばかり教育した。
「オレは皆の先頭になり、若い人たちの命を預かって登るリーダーなんだ。オレが万一、岩壁から墜ちて死んだときは涙なんか流さないで、オレの母親らしく毅然とした態度でいてほしい」
 と、いい放った。私は遭難発生から遺体収容までどのように進められお金はどうするのか、遭難者をだした家族としての適切な処置を母に教え込んだ。
 山に無知なため泣き、叫び、自分の息子を死に追いやった山岳会を罵るような、分別のつかない母親に絶対なってもらいたくなかった。悲しみをこらえ、平然と受け止められるだけの、山を理解した母になってもらいたかったのである。
 それから三年後、山岳同志会に入会した新人が、五月の穂高涸沢合宿で北穂山頂付近から転落死するという遭難事件があった。汗みどろになって仲間たちが遺体を上高地に収容した途端、父親が私にいった言葉をいまでもはっきり覚えている。
「あなた方が息子を殺したんだ」
 と。
 これは、自分の息子が不注意で転落し、後始末をやった私たちに放つ言葉ではないはずだ。黙って俯いてこらえたが、私はこのときほど母に山の遭難の教育をしておいてよかったとつくづく思ったことはない。
 それ以来、母は新聞の山の記事を熱心に読むようになった。どんなに小さな遭難でも、
「政坊、冬の谷川岳で疲労凍死だってさ」
 と報告してくれる。こんなとき、私は億劫がらず、必ずわかりやすく説明してやった。
「疲労凍死っていうのはね、母さん。吹雪になると体力がなくなり、疲れきって死んでしまうことなんだよ。この死んだ人たちは吹雪に負けてしまう体力しかもっていないんだ。冬の山に登れば、晴れた日もあるかもしれないが、吹雪になることもある。だから、オレは冬の山に登る以上、この吹雪に打ち勝つだけの体力と精神力をつけて登っているから、心配しなくていいんだよ」
 母はなるほどという顔をして納得する。遭難があるたびに、その遭難の内容を詳しく専門的に解説してやるので、母も次第に山を見る目が鋭くなってきた。